これを契機に沖縄を知りたい

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

沖縄に行くのも初めてで、また、沖縄戦についても何の予習もしていかなかったので、その全貌をつかむことが余りできなかったのではないかと思います。これを契機としてもう少し沖縄のことも知りたいと思った次第です。
矢部宏治さんの「日本はなぜ、『基地』と『原発』をやめられないのか」という本があります。矢部さんが一連のシリーズの中で、安保条約、地位協定、密約というセットで、日本が実質米国の完全な支配下にあることを暴き出し、最新の「知ってはいけない」という講談社現代新書でその全貌を分かりやすくまとめています。その「基地」と「原発」の本だったと思いますが、彼は、沖縄に行くと日本がよく見えてくるということ書いています。下地さんもお読みになりましたでしょうか。それは沖縄では基地の実態や、特にその治外法権の実体があからさまだからです。
沖縄から戻ってすぐに友人と飲んだのですが、いきなり、「沖縄の平和祈念(資料)館に行ったか、あそこは驚いた、反日なので、あれが国立だとは」という発言があり、驚きました。「県立だ」と言うと、「沖縄は本土に対する反感が強いからな」という趣旨のことを返されて絶句しました。確かに、沖縄は日本の中で、捨て石にされて、恨みが残っているとは思いますが、それを「反日」という言葉で表現されると、それは違うだろうと言わなければならなかったと思います。ですが、そうは言わずに終わってしまいました。
沖縄県知事が記者会見する際に背後に漢詩の屏風も、中国に対する親和性を感じさせるので、日本の昨今の姿勢に対する反があると感じている人が多いと思います。かく言う私も、本土の人に対するメッセージ性を感じています。ですが、漢詩は150年前までは日本の文化の基底にあったもので、今でも漢文が高校の国語に残っているのはそのためでしょう。多分、そういったことの感じ方の違いがお互いの距離になっているのだろうと思います。「反日」と言った彼は相当の読書家で、母上が久米島出身という佐藤優氏が、もう10数年前に、沖縄は余り「本土」から疎外されると、日本から独立したいと考え始める可能性が結構あるということを書いていて、沖縄以外の人は、そのことが分からないとも言っていましたが、そういう気持ちのずれは確かにあるものだと今回、私も感じました。
こんな話から始めるとガッカリされるかもしれませんが、素直な感想として言わせて頂ければ、東京の近郊の国立に住んでいる私にとって、ツアー中も少し申し上げましたが、基地が近くにある現実というのは、それほど珍しいものではありません。自衛隊の基地も含めれば、かなり至るところにあるという感じさえします。隣町の立川にあった立川基地は米軍基地でしたが返還されて、自衛隊の基地と昭和記念公園に生まれ変わりましたが、子どもの頃は、青梅線の立川から拝島まで何駅も線路の片側に、基地が続いていたのを覚えています。反対の隣の府中には航空自衛隊の基地があり、返還されたはずの米軍基地の跡地が放置されているところもあります。横田基地や相模原補給廠、入間の航空自衛隊、厚木基地、座間キャンプ、横須賀基地、・・・多分、東京を取り囲んで30~50kmの地域には、戦前に作られた帝都防衛のための基地が、ちょうど国道16号線という環状道路に沿って、ネットワークを作っているので、沖縄に次いで基地が多い地域なのではないかと思います。また、自宅の上を、嘉数の丘や前田高地ほどではないにしろ、ヘリコプターの連隊が爆音を響かせて飛んでいくこともあります。だから、沖縄だけではないとは思います。ただ、その面積に占める割合とか、訓練の激しさ、(例えばオスプレイの飛行頻度)とかは、確かにレベルが違うと思ったことも確かです。また、米軍の治外法権の問題性の大きさも、比べものにならないぐらい違うという感覚を持ちました。
本題の沖縄戦の戦跡を見て回るツアーの内容についてですが、本当にほとんど何も前提となる知識を持ち合わせていなかったので、慶良間諸島を経て、中部のあの海岸から日本軍の飛行場をめがけて上陸して、首里城に至る3つの防衛ライン(高台、丘陵地)の間で激戦があり、じりじりと日本軍が後退し、最後は南部に住民たちを巻き込みながら転戦して行ったということが分かりました。牛島、長、八原の三人の指揮官の性格の違いも興味深いものでしたし、最後は八原が天皇を守るための時間稼ぎでその南部への展開を決めたというのも、象徴的な話だと理解しました。戦場となったときの嘉数や前田高地の辺りの写真と、現状の違いも目を見張るものでしたので、写真があったのはよかったと思います。そして、鉄の暴風と呼ばれた爆撃の嵐の話や、その痕跡をとどめる遺物なども、現場でないと分からないことがありました。それでも、全体として分かったような気にはなりませんでした。たった一日、ざっと見て回ったぐらいで分かるようなものではないだろうし、現状は米軍が日々訓練しているとは言え、実際の戦闘の現場とはかけ離れたものだからでしょう。もちろん、その鉄の暴風の惨状を肌身で分かることは、精神に異常をきたすような話でしょうから、分からないのが当然で、その分からなさ加減が分かったというぐらいで、よかったのかもしれません。その分からないということから、もう少し分かりたいという気持ちが生まれるので、早速、書店に行って「沖縄戦」大城将保著を買ってきて読み始めました。大田昌秀さんの「写真記録 沖縄戦」もよさそうでした。この二つぐらいは、東京の本屋でも売っています。沖縄の本屋には沖縄コーナーがあるそうですが、他にお勧めの本などありますでしょうか。
個別の話はいろいろありましたが、印象に残っているのは、薩摩芋を広めた人の話です。主題とは直接関係ない話でしたが、調べたら野國総管という人らしいですね。1605年に中国の福建省から甘藷を内緒で持ち帰って琉球に広めたということで、それが、今では薩摩芋と呼ばれていて、名前を薩摩に取られたのは、1609年に薩摩が徳川の命?許し?を受けて、明との国交回復と薩摩藩の財政を豊にするという目的で琉球に侵攻してきて、3000人でしたかで、武士のいない琉球のにわか作りの兵をあっという間に、火器も持っていた薩摩の軍が制圧して、それ以来、薩摩に従属した結果だという話です。だから、今でも沖縄には薩摩に恨みを持っている人もいるとか。さとうきびだけを作らせたのは奄美大島だったかと思いますが、沖縄でも似たような形でお金になる作物(さとうきび)を作らせて、薩摩の財政の足しにしていたということですね。それはまさに、プランテーションで、西欧列強が植民地を支配した際に取った政策と同じと思った次第です。それが、明治維新の薩長の薩摩が雄藩として立ち上がる一つの理由(資金源)だったと。
この話を聞くと、やはり軍隊は必要だということになります。もちろん平和が良いとしても、軍隊は必要で、そうすると、憲法の前文や、憲法九条は変えざるを得ないという話になりませんか。当時の薩摩藩や徳川幕府のようなことをする国がないならいいのですが、そこのところは、考えどころだと思いました。
しかし、過去の自分の国がやってきたことを、自分の国はやらないと誓えても、他国がその通りにする保障がないのが問題です。下地様も、治外法権と沖縄の大きすぎる負担、並びに日本国政府の役人やそれに連なるエスタブリッシュメントの大企業の金もうけの手段で新たな辺野古のような軍事基地を建設し、国の予算をじゃぶじゃぶ米軍のための思いやり予算として使うのは許せない、という主張されていたと思います。普天間と辺野古は海兵隊がグアムに撤退する計画もあったのに、日本政府が居残らせているのがよくないが、一方で、米軍の駐留は仕方ない、飛行場は嘉手納基地だけで十分ではないかと言われていました。人間は愚かなので、結局軍隊は必要だということになるのですね。そこのところは、どう主張するのがよいのか考える必要があると思います。
私は、長い目で見れば憲法9条は自衛隊の存在と矛盾するので、変えるべきだと思いますが、一方で、現状の米国の支配下である現実を考えると、米国の言いなりにならないための道具として9条を活用すべと考えるので、今すぐ改憲するというのには賛成しません。それには、日米地位協定や安保条約を改定して、日本が独立国になることと同時でないと憲法で許される軍隊を持つ意味がないと考えます。私は個人的には、米軍はすべて追い出して、日本独自の軍隊を持つべきだというのが理想ですが、現実的にはそれは難しいというのも理解できます。それでも、もう少し米軍に対する従属度を低くしたいと思います。結局、米軍に支配されていることが目に見えるのが沖縄で、でも、沖縄のリゾート地だけを見ていてもそれは分からないから、それを見せる努力は重要ですね。
沖縄の人が、沖縄に負担が集中していて、米国による支配があからさまな沖縄と、それがかなりソフトな本土の間の温度差になっていることを、もっと東京に出て来てそれを主張できるといいのですが、メディアは押さえられてしまっているので、難しいのでしょう。
日本軍にも沖縄の人たちは、間諜の疑いをかけられ、村民が虐殺されたこともあり、米兵よりも日本兵の方が怖かったという証言もある。戦後は、米国の支配下に入り、米軍に苦しめられるようになり、1970年にはゴザ暴動もあった。1972年に本土に復帰したものの、今度は日本政府が米軍におべっかを使って、米軍>日本政府>沖縄という構造の中で苦しめられることになった。この構造の中で二重に差別されているわけで、返って本当に相手にしなければならない相手が遠くなってしまったとも言えるわけです。
ともかく、その差別構造というものがずーと続いているが、そのことが、やまとんちゅーには分からない。そういうことと理解しましたが、違っていますでしょうか?
この壁をどうやって乗り越えるのかが課題なわけですが、やはり米軍に対する従属度を下げるということで、共闘していかなければならないはずです。ところが、今の韓国たたきの風潮の中では、中国、北朝鮮、韓国がなかば敵のように扱われ、対する日本としては米国を頼りとするしかないという論調が支配しています。本当は、観光客誘致で何とか経済を持たせようとしている国家戦略とも、上記の話は大きく矛盾するのですが、そういうことには無頓着で、というかその多数の隣国からの観光客の存在が、下手をすると、まさに非正規雇用の不安定な人たちの不安や劣等感を煽るような形になっているようです。いずれにしても、日本は否応なく米国側についているにしても、米国と中国との覇権争いの中で、板挟みにあっているということを、多くの国民が理解することが、沖縄の窮状に共感が集まるためにも、必要だと思っています。
さて、本題に戻ると現地で話を伺ってよかったと思う点として、wikipediaにも沖縄戦の項目があり、帰宅してからチラチラ見たのですが、どうも日本兵の勇猛さを強調するくだりがおおく、事実勇猛であっただろうとは思うものの、それを強調し過ぎるのは変な意図を感じざるを得ないわけで、やっていることの悲惨さ、凄惨さや、絶望的な戦いの感覚というものが、分からなくなるのではないかと違和感を覚え、そういう違和感に何かしたら実感が加わった気がするところです。今の現実風景が、あの写真のようになるというだけでも、それは言葉にできない凄みを感じるわけです。
南部のあの隆起した元は珊瑚の石灰岩からなる地形で、カルスト台地のようなもので、起伏に富み、そして至る所に洞窟(ガマ)があるという地形が良くわかり、またその地形が、戦場として作戦にどう影響し、最後に逃げ込んだガマで悲惨な集団自決や、火炎放射や爆弾等による、集団的な殺戮が行われたのかということが良く分かったことです。東京で考えるなら、山の手台地のまさにその突端のところで、台地と谷が入り組んだ地形があるわけですが、その台地の突端の斜面に防空壕が掘られていたように、その台地上の陣地をめぐって、凄惨な地上戦が戦われたということに相当するでしょう。東京の台地は岩石ではないので、爆弾に耐える力は弱く、また、高低差も小さいので、沖縄戦のようには耐えられず、あっという間に壊滅でしょうね。そうすると東京近郊だと、多摩丘陵や、横浜から三浦半島にかけての丘陵地帯でそのような戦いが繰り広げられたと考えるのが妥当だと思います。湘南海岸に上陸した米軍が、50km離れた東京に迫ってくるときに、多摩丘陵の陣地を巡って死闘が繰り広げられたと想像してみることですね。自分の知っている土地で言うと、今の慶応大学の日吉キャンパスのある辺りが、前田高地で、田園調布の南の河岸段丘あたりに首里城の地下司令部があったとか、多摩川を挟んで激戦があったとか、そんな感じだと思います。東京から来た人には、そんな話をすると土地感覚が分かってよいと思います。
それからもう一点、韓国の人たちが徴用工や従軍慰安婦だけでなく、朝鮮人日本兵として戦闘にも参加しているはずですが、その日本兵だった皆さんには恩給などが出ているのですか?徴用工などに対しては、個人的には救済はされずに、1965年の日韓合意で、日本政府から朴政権に対して一括してお金が5億ドル?払われたという話だったと思います。個人に対する救済はそれでも必要だというのが一般的に認められているので、日本企業も請求権協定とは別にそれなりの対応をしてきたが、今回は政府がそれを止めたということだと理解しています。それで気になったのは、朝鮮人日本兵はどういう扱いを受けたのかということですが、wikipediaを見る限りは個人として多少の救済はされたように見えました。本当のところ北朝鮮にも補償しなければならないはずで、敵対しているから放置されていますが、核兵器を手放さない限り出さないとして、永遠に放置するんでしょうかね。日本国民の感情として、拉致の被害者の問題だけでなく、核兵器を持ったままの北に対しては、お金を出したくないでしょう(中国には出したわけですが・・・)。

沖縄県の皆様の訴えたいこととして、普天間を返還し辺野古を止めるということが最大公約数的なものであるということなのですね。もちろん、その主張は私は知っておりますが、東京の一般の人たちの中でそれを浸透させることが、とても困難で、壁にぶつかっていると言っていいと思います。SNSでそのような主張をしているグループの皆さんもおりますが、そういうグループの皆さんに対しての攻撃が日増しに強まっている感じがしますし、昨今は、その訴えも弱くなりつつあるのではないかと思えます。恐らく、民主党政権の鳩山内閣で、辺野古を最低でも県外へと約束したにも関わらず、それがあっけなく挫折したことが、第一の関門として立ちはだかっているように見えます。あの失敗の原因を究明して、その対策を立てて臨まなければ、本土の多くの人々の納得を得ることは難しく、あとは棚から牡丹餅を待つことになってしまうでしょう。

このようなことを言うのは単なる開き直りで、うちなんちゅーの皆様から見れば、盗人猛々しいの類かもしれませんが、沖縄県からも本土の人と共闘できるような、提案を、声を、東京や他の都道府県にも届けるようにして頂けたらと思います。
私は自分のできることはやります。多くの人は説得できないでしょうが、少数の人を説得したり、逆の方向に行っていまわないように努力することです。しかし、それも現実には自分の友人の一人も十分に説得できないわけなので、大した力ではありません。
鳩山内閣の話を例にとると、政治は結果であるということからすれば、鳩山首相のやったことは、あっけなく敗退したことから、辺野古の問題に関しては、マイナスだったとすら言えるわけです。これに対して、それきちんと言い出したことが前進だったと評価する人もいれば、そもそも、反日の沖縄の言うことを取り上げること自体がけしからん、反日なのだから基地を置いて押さえつけとくのが丁度いいとさえ考える人もいるでしょう。私は、鳩山首相が官僚を押さえる算段を持たず、米国と交渉する戦略もなしに、辺野古の問題に乗り出したのは失敗だったと言わざるを得ないですが、この間、色々と明るみに出たことを考えれば、その動議を出していいこともあったと評価する必要があると思います。
多分、今できることは大きな戦略を持って、次のチャンスに何をやるか考えて、その方針を決めることです。可能な限り、沖縄の人も本土の人も同じ考えを持てるようにしていくことです。日本と北朝鮮が和解するタイミングなのか、台湾が中国に取り込まれるタイミングなのか、日ロの平和条約が締結できるタイミングなのか、私には分かりませんが、そういった可能性を考えておくことぐらいかと思います。
米軍が韓国を撤退する可能性はかなりあるでしょう。そのときは沖縄に対する日本政府からの締め付けが厳しくなるかと思いますが、それは一つの契機にはなるでしょう。
しかし、今の韓国叩きの状況を見るにつけ、米軍が韓国から撤退したら、沖縄にたいする圧力が高まることしか想像できないですね。それを東京の一市民がどうにかすることはできる気がしません。そこで、思っているのは、令和新撰組を応援するのがましな選択だということぐらいです。
最後に一つだけ質問です。普天間と辺野古が沖縄にとって焦点だとすると、鳩山内閣のどこが失敗だったとお考えですか。私は、その伏線として2009年の小沢一郎の在日米軍は第7艦隊で十分という発言をきっかけに彼が東京地検特捜部とメディアスクラムにより失脚させられたことがあると思います。これを、国民が守れなかったことがまずあるわけです。私は個人的には、あのとき小沢一郎を応援しました。それから、鳩山由紀夫も辺野古の件で色々批判されましたが、僕は擁護しました。どちらも大した力にはなっていませんが・・・。
それから可能性として、首里城の火災は謀略の可能性もあると思っています。しかし、それを言い出すと袋叩きに合うでしょう。それでも、本当にそうならそれを明らかにすることが重要です。でも、完全に一般の人が1か月シャットアウトされた中で現場検証が行われて、その間に対した情報が出てこないのですから、怪しいとは言えても、これはどうしようもないと諦めた方がいいのかもしれません。このことで、日本政府が金を出すからと言って負い目を持たないようにできたらと思います。その意味で、多くの寄付を集めて、再建に際して政府の出す金を少なくすることが、沖縄人の自由につながると思います。
(S.K.様 東京都 男性)