心に深く重く湧き上がってくる感情

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

下地さんのツアーに参加してから4日がたとうとしています。日を重ねるごとに心に深く重く湧き上がってくる感情。それは「ありったけの地獄」を見た沖縄の人たちと沖縄の地が受けたあまりにもむごい現実が、下地さんの言葉と用意してくださった資料、そして実際に自分がその場に立った経験を通して私の目に心にフラッシュバックのように浮かんでくるからです。
初めて訪れたチビチリガマ、そしてその後に行ったシムクガマ。避難していた住民が米兵が現れ投降を呼びかけられたけれども自身と家族を手にかけ集団死が起きたチビチリガマと、「米軍は住民を殺さない」と避難民を説得し、米兵との交渉に出ていった比嘉さん兄弟の行動で約1000人の命が救われたシムクガマと、その違いは何だったのか?下地さんは私達に問いかけ、頭と胸を指さしました。「正しい、本当の知識・情報」と「勇気」。その答えが胸にずしんと響きます。誤った情報を信じ込むことの恐ろしさ(米軍に捕まれば虐殺されると信じ込まされていた)、違う文化を持つ人の感じ方や価値観を理解すること、自分や家族、友人の命を守るという勇気。一つ一つを胸に刻みたいと思います。
続いて訪れた嘉手納基地で、まさに耳をつんざくような轟音とその音よりも速く飛ぶ戦闘機を至近距離で見ました。初めて体感するこの感覚。恐怖で震撼するほどでした。地図を見せて頂くと普天間基地よりはるかに大きな嘉手納基地の規模に驚きました。「中国への抑止力と政府は言うが抑止力ならこの嘉手納基地で十分。普天間基地がなぜ必要なのか。私達はすべてを拒否しているわけではなく実際に嘉手納基地を受け入れている。普天間基地は1996年に米軍から返還されることで合意は成立しているのにいまだこの状態。返還を求めることは私達のわがままですか?」。下地さんの言葉に絶対にそうではない!と言いたいのに言えない自分がいました。同じ日本に生きながらこの事実をよく認識していなかった自分が恥ずかしく申しわけなかったのです。「一部の本土の人、日本政府には、DNAレベルでの沖縄の人間に対する差別意識があるように思えてならない。」そう言った下地さんの悲しくやりきれない瞳に返す言葉がありませんでした。
ツアーのコースが米軍上陸地の読谷村の海岸から北谷町、嘉数高地、前田高地、そして首里へと向かうなかで、筆舌につくしがたい戦闘の様子があきらかにされていきます。中でも衝撃だったのは鉄血謹皇隊と呼ばれていた15歳から19歳の学徒たちがアメリカ軍の戦車に爆弾を背負って体当たりしたという事実です。戦車の車体は装甲が厚く普通の爆弾ではびくともしないため、キャタピラーを狙い、轢かれるように突撃して戦車を動けなくする。想像を絶する戦略が当たり前のように行われる。それが戦争なのだと改めて思わされました。兵士となった人が、そこに暮らしていた人々が、悲惨な死を遂げたのは何のためだったのか。「軍隊が沖縄に来たのは人々を守るためではないのです。」下地さんの言葉にはっとしました。徹底した皇国主義と教育、それに加え他人と違うことをするのを恐れる日本人の気質など、それらは軍部にとっては人々を戦争に向かわせるのに好都合だったのでしょう。当時、アメリカ軍の戦力は日本軍を圧倒しており(米軍約55万人、日本軍約10万人。武器の量や性能を合わせた戦力の差は10倍以上だった)、その事実を日本の中枢部は知らないはずがなかったとのお話に、死を覚悟して戦地に向かった人たちの思いを今自分はどれだけ想像できているだろうかと自問せずにはいられませんでした。
岩手県花巻市出身の私の祖父は1945年(昭和20年)5月21日 首里東北部で戦死(当時42歳)したと母から聞いています。祖母が晩年書き残したものに、「主人は沖縄行きの途中(1944年8月)、広島を出発するにあたり私への遺言として『信仰に立つものとして(祖父と祖母はクリスチャンでした)主なる神のみこころに叶う処置を執るように』との一筆を受け取った。」と書いています。沖縄に向かう時にはすでに祖父は生きて家族のもとに帰るのは難しいと覚悟して手紙を書いていた。この事実に胸が締めつけられるのは今回このツアーに参加して、祖父が見たかもしれない景色を見、歩いたかもしれない地をたどることができたからです。貴重な体験を、考えるきっかけを、そして沖縄戦について知らなかった多くのことを教えてくださった下地さんに心から感謝しています。
(K.S.様 神奈川県 女性)