70年の時間をたぐり寄せて

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

兵士や住民の過酷で凄惨な事実を垣間見ることができ、また70年の時間をたぐり寄せて身近に感じることができたように思いました。
また、現地司令部の議論や動きを詳細に教えていただいて、中央の最高戦争指導会議が6月8日の御前会議で戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」として本土決戦を唱えた「戦争指導大綱」が決定され、戦争が継続されていったたことを併せて思えば、これ以上悲しい歴史はないと思わされます。
同会議で外務省、海軍省が一貫して「即時講和」を主張していたのにもかかわらず、「政治」は決まらずただズルズルと時間が流れていくというのはどういう国なのかやはり分かりません。どうしてこのように民に思いをはせない政治をする国になってしまったのでしょうか。このことは、私がずっと前から疑問に思っていたことで、現地に行ってあらためて考えたいと思っておりました。
司馬遼太郎は、敗戦までの約20年の日本を「魔法の森」と称していて(『「昭和」という国家』1999.NHK出版)、その「魔法」を解く鍵は「尊皇攘夷」と「統帥権」だといっています。尊皇攘夷は維新期の言葉ですが、昭和期まで「ひとびと」を国を支える大切なものとしてみる思想が(明治期に)育たず、西欧列強に並ぶことと排他思想しかなかったことが大きな要因だということでしょう。
私は、明治期の「言語の育ち」が大きく関与し、つまり日本語で多くの人が国家社会や人のあり方、その仕組みや関係・・・を思考できるほどの成熟を見る間もなく、政治家は情報を操作することに恥じらいもなく、国民は「勝った!勝った!」という情報にうかれて後押しをするような自虐的な行いをしてしまうということになったのでは、と考えたりしますが、そういう愚考は置いておきます。
実は、私は元小学校教員です。社会科を主に研究してきた者です。その関係で、「社会科の初志をつらぬく会」をいうけったいな名前の研究会に出会い、40年近く勉強させてもらっています。ご存じないかと思いますが、戦後それまでの教育に対する反省も込め、「新しい民主的な社会を主体的に創造する人間は、子どもの切実な問題解決を核心とする学習によってこそ育つ、という考えにもとづいて知識の注入主義を排し(科学や知識の盲目的奴隷にならず)、(国や社会が望む「人材」でなく)その子にふさわしく個を確立していく」教育のあり方を求めて、小中学校での現場実践をふまえて実践的研究をしてきております。
退職前は研究部を、現在は事務局を仰せつかっております。一応、全国組織ですので沖縄にも数少ないですが会員の方もおられます。北谷、南城だったと思います。
そういうことで、退職しましたが社会科教師の血がよみがえり、久々に「フィールドワーク」らしいフィールドワークをさせていただきました。やはり社会科の教師はこういった教材研究を無理してでもしなければなりません。単に「教材」研究としてではなく、社会研究、人間研究としてすべきだと思います。
体調不良でご迷惑をおかけしましたが、お蔭でまた訪沖のきっかけもできました。娘が計画してくれたものに「はいはい」と乗っかって訪れましたが、やはり歴史は重く、よく考えさせられました。
機会がありましたら、次回は残りもさることながら「島田叡元知事の足跡」をたどることができたら、戦時下にあっても「ともに社会をつくる人」として、状況をどう見、どう生きたかという思い、考えから学ばせてもらえるのではないかと思います。
お礼を、と思い書き始めましたが、ぐだぐだと書いてしましました。
あらためて二日間のガイドにお礼申し上げます。本当に思いもよらなかったいい経験でした。
(M.様 大阪府 父娘)