70歳を謳歌する人々へ

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

1968(昭和43)年に大学を卒業しました。60年と70年安保の端境期でしたが、ベトナム戦争や家永教科書訴訟、学費値上げ、釜ヶ崎騒動などとそれなりに考えさせられた時代でした。そんな中に沖縄返還問題がありまして、さほど深く考えもせず“沖縄を返せ!”などと歌ったりしたものでした。こういった問題について、ちょっと考えてみたらと教えた論調の牽引役は、“世界”、“現代の目”、“朝日ジャーナル”といった雑誌だったかと思います。その後、そんな本は二度と手にすることもなくサラリーマン生活を続けまして、3年前に卒業するまで40数年、誠に“企業戦士”というにふさわしい生活を貫きました。その間、沖縄には何度も行きましたが、空港とお客の会社と飲み屋とホテルしか見ずに通り過ぎてきました。我が青春時代の“沖縄を返せ!”という叫びは一体、なんだったのかを考え直し改めて行動する気力はもう無いと思うのですが、沖縄問題をもはや誰に遠慮することもなく考えて良い身分になった今、下地さんのツアーならついて行って悔いはないかなあと思えましたので参加を申し込みました。たまたまネットで下地さんのツアーに出会えたのが幸いでした。我が青春時代にはあり得なかったネット情報なるものの有難さでありました。
*下地さんの戦跡ツアーに参加して
<一回のツアーには一組のお客だけ!>
二日間で沖縄戦跡の始まりから終わりまでをたどるコースに横浜から参加しました。しんどいテーマですが、めったにない機会ですのでしっかり見て、じっくり考えたかったからです。
下地さんは開口一番、“一回に案内する客は、見知らぬ他人に気遣いをさせたくないので一組だけにしている”と。小生は一人旅でしたのでたった一人を二日間、終日、案内くださいました。
<ツアーの料金は決して高くなかった!>
二日間とも朝9時にホテルを出発、そして各地の戦跡を巡った後ホテルに到着したのは19時過ぎでした。移動中や昼食時間までも休むことなく徹底的に“沖縄戦”を解説してくださり語り合いました。仮に京都などの観光地でタクシーに乗って終日、ただ走り回ってもらうとしても、こんなに安い料金ではすまないでしょう。誠に贅沢な旅になりました。
<要所々々で用意くださっていた戦争記録写真と解説文を使って説明あり、実にわかりやすかった!>
沖縄での米軍と日本軍のいわばプロ同士の動静とそれに巻き込まれた住民の動静をたどってくださいました。軍人は戦うために動員されたいわばプロなわけですが、その周辺でひめゆりに代表されるような看護要員とか鉄血勤皇隊と称する補助的な要員として動員された若者達のような素人集団などと老人や幼児といった無辜の住民が巻き込まれて犠牲になったわけで、そういった人々の動態がわかりやすく解説ありました。頂戴した手作りの解説書は、A4サイズで6ページもありました。“ここから撮られた写真だ!”と都度、戦跡で写真を見せてくださいましたが、まるで砲弾や鉄砲などの破裂音などが聞こえるような臨場感がありました。“ここで泣いたらあとがしんどい!”という老人特有の自己防衛で、かろうじて涙を飲み込みながら立ち止まらず歩きました。
<勇気ある解説をしてくださいました!>
戦争という極めて異常事態の中で一体、何が何故に起こったのかについて、これこそが真実だと言い切ることは難しく、とかく異論のあるところです。誠に困難な作業になりますが残された資料を冷静に読み込んだりしながら自分なりの結論を得てゆくしかありません。近年、韓国、中国から我が国の“歴史認識”を問われる事態が生じているわけですが、その背景には多面的な歴史的な事象を一言で説明しきることの困難さがあります。しかしどうみても“戦犯”だと思える者を“顕彰”する巨大な碑が官費で建設されていたりするのを見てしまいました。その結果として、我が国に“反省の色なし”との一見、理不尽に思える怒りについつい共感させられてしまうのは誠に無念でありました。“バックナー中将”のさりげない碑文を見て議論の余地なく事実は事実として素直に受け止めてゆくべき視点こそ大事ではないかと教えられました。
今日的な話題として“辺野古問題”にも当然、話が及びました。下地さんはこういった複雑な課題についての自分なりの結論を参加した小生の理解力に応じて披露してくださいました。お客のものの見方、考え方を受け止めながらも自分なりに得た見方、考え方を披露してゆくことは誠に勇気のいる作業です。下地さんはそれを見事にやり遂げられたと思えました。それは横浜などで流されるメディアの公平なはずの見解の偏りを見事に証明するものでありました。
<真の英雄は誰か、そして教育がいかに大事であるかを教えられた!>
ジュネーブ協定で認められた“降伏”を許さず、“虜囚の辱めを受けるな”と教えた者こそ大いなる“戦犯”でありましょう。無辜の住民の被害を最小限に留める実行力を持っていたにもかかわらずそうしなかった者も重罪の“戦犯”でありました。“軍隊は住民のためには機能しない。”と司馬遼太郎もいいましたが、この沖縄戦でもそれを証明することが起こりました。そんな異常事態の中でもチビチリガマ近くのシムクガマにあって “降伏”を先導した勇気ある者がいたと下地さんは教えてくださいました。誠に凄惨な悲劇の中での大いなる救いでありました。何故こういう人が存在しえたかをこそ語り継がねばなりません。そしてこういう人々にこそ“勲章”が与えられる国でありたいと心から願った次第です。
<沖縄戦跡は永遠に保存すべき我が国の最大級の遺産である!>
いつまでも残さねばならないと思える戦跡に、下地さんは丸二日間、精力的に案内してくださいました。中にはよくこんな場所があることを知ったものだと感心するくらい目立たたず案内板もない戦跡にも案内くださいました。原爆記念ドーム同様、これらの戦跡が永遠に保存されますようにと祈る思いでした。 “沖縄戦跡保存基金”があっていいと思いました。若人諸君に頑張ってほしいテーマでありました。
<下地さん自身を語るだけでも感動的なツアーになるでしょう!>
実は下地家もまたこの沖縄戦の被害者だったということが戦跡をたどりつつ遠慮がちに語られました。父君が対馬丸に乗り遅れたことやおじいさんが怪我をしてサトウキビ畑で動けなくなったことなどが下地さん自身の誕生につながりました。そんなちょっとした偶然に恵まれて今、自分が生きていると語る下地さん。だからこその説得力あるツアーになりました。
<まとめとして>
対馬丸の資料館には訪問できずに終わりました。残念でした!
靖国神社に沖縄戦で使われた同じ兵器類が保存されていると下地さんに教えられました。改めて訪問しようと思いました。
下地さんのツアーが末永く続けられ、真面目なサラリーマン人生を卒業なさって誰に遠慮することなく余生を謳歌しておられる諸兄や多くの若人が学びの場とされんことを祈ります! “非戦”の祈りとともに!
( “横浜・70歳を謳歌する人々へ”  T.様 神奈川県)