ツアー体験のご感想

実地を踏む。これにまさるものはない。

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

旅から戻ってはや2か月半。コロナショックのさなか、期するところもあって、連日のように琉球・沖縄関連の文献を読みあさっています。
日本に生まれ、育ち、生活をいとなむ者が、とりわけ、歴史に関心を持ちつづける者が、琉球・沖縄を避けてとおることはできない。
そうは観念しながらも、琉球・沖縄は遠く、近寄り難く、歳月をおくほどに越えるべきハードルは高くなるばかり。
いまや年齢も喰ってしまったことだし、このまま逃げをきめこむこともアリかな……と思いはじめていた矢先、同窓の先輩方が旅に誘ってくださった。
思いきって出かけて、2日間の歴史ツアーを体験し、恩恵の大きさをしみじみ噛みしめています。ありがとうございました。
実地を踏むこと。まさしく、これにまさるものはない。
たとえば、米軍上陸直後に、読谷の住民たちがチビチリガマでこうむった惨禍と犠牲。帰阪後、わずかに数冊の本を読むにつけても、その場を訪ねたときのことが、つたない想像力や思考の力を助けてくれます。
嘉数台地や前田高地から眺めた、かつての激戦地。逃げまどう住民もろとも、あらゆるものを劫火にさらした島尻の平野の光景。日本軍の地下陣地となり倉庫となり、病院となって屍を山と積んだアブチラガマ……。
本来なら、しっかり予習をしていくのがいいにきまっていますが、逆もまたアリ。
「百聞は一見に如かず」の逆です。「一見は寡聞を何倍にも深くする」とでもいったらいいでしょうか。
めぐりあいの可能性を、あきらめないでよかった!
とはいいながら、読めば読むほど、知れば知るほど、いっそう琉球・沖縄は遠のいてゆく。それがいまの実感です。
け、れ、ど、あきらめません。コロナの障りがおさまればまた、きっと出かけて参ります。
(O.S.様 大阪市 女性)

勇気を持って行動することの大切さ

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

先日は本当に本当にありがとうございました。貴重な体験をさせていただけたこと感謝の気持ちでいっぱいです。
下地さんと会う前、今回のツアーに不安がありました。自分が話についていけるのか、ということや気持ち的にどうなるのだろうと思っていました。下地さんは難しい言葉をいつも説明してくれてとても分かりやすく安心しました。気持ちについてはもちろん話を聞いて悲しくなったし、ガマに行ったら正直恐くなりましたが、冷静に受け止め考える事ができました。話は本当にこの地で起こったことなのか、と疑いたくなるくらい残酷でした。本当に本当に酷い話ばかりでやっぱり今も胸が痛いです。
ヒガさん兄弟の話を聞いて本当の話を見極めること、勇気を持って行動することの大切さを痛感しました。(私にはまだ勇気を持って行動する事はとても難しいですが、いつかはしっかりとした勇気を持てるようになりたいです)
日本兵が行ったことなどを聞いて、それは耳を塞ぎたくなるほど酷い話だったけど、しっかりとその真実と向き合って生きていかないといけないんだと感じることができました。これからの日本を支えていくのは私達なのだと思い今回の体験を私の話せる限り親しい友達に伝えていきたいと思います。
学校や普通の旅行では絶対に知ることのできない話、場所。参加する事ができて本当に良かったです。
下地さんの話は聞くだけじゃなくて質問形式での会話。受け身ではなく自分で考えて話すことができたのがよかったなと思います。
また、現地で見ること感じること、考えることができて、当時の気配を少しでも感じれたと思います。ガマは少し恐かったけどとても良い体験でした。
情報について、何を信じるのかというのは自由かもしれないけど、その自由には責任があると感じ、大人になることは、自由になることだけど、同時に責任も伴うなと思いました。
また、アメリカ軍が悪い、日本軍が悪い、とかそういうのではなくて戦争自体が酷いものだと私は思いました。これから先、二度と戦争は起こってはいけないです。でも、今も世界のどこかで爆弾が撃ち込まれてたりするのでしょう。世界中が戦争やめようってなったらいいのに、難しいです。私が世界を変えることはかなり難しい事だけど、私が周りの人を一人でもいいから変えられたらいいなと思います。
(O.S.様 三重県 女性)

私は自分の命を大切にしようと思いました。

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

今日はありがとうございました。こんなきれいな景色が見られるところに戦争が行われたなんて信じられなかったです。今日は学校では学べないようなことをたくさん学ばせていただきました。ヒガさん兄弟みたいに正しい知識と勇気そして日頃の行いが大切なことだと分かりました。
また軍人さんの考えを知りました。私は自分の命を自分や家族のために大切にしようと思いました。
沖縄は難しい問題が少ないところだと思っていました。しかし、アメリカの人との立場の違い。そして基地のあまりにも大きく、多いこと。たくさん問題がありました。そんなことは一つも知らなかったです。たくさんの理不尽を知っていくことから大切だと分かりました。
本当にありがとうございました!

(O.F.様 三重県 女性)

あまりにも『知らなすぎた』

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

私はこのツアーを通して、自分の中の世界が大きく一変したように感じる。その理由は多くの事を学んだから、というのも勿論だが、より端的に言うなら自分があまりにも『知らなすぎた』からだ。
私は県外の人間だが、沖縄の歴史や問題に関して人並み以上の関心や知識を寄せているつもりでいた。今日のネット社会を中心に右傾化しつつある世の中において、自分は比較的良識のある部類の人間だと思っていたのだ。それのなんと浅はかだったことか。沖縄の歩んできた苦難の歴史をリアルに見聞きし、案内された今そう痛感するばかりだ。私は今までテレビ画面や新聞紙上で勝手に憤りや憂いを抱いていたに過ぎず、この戦跡ツアーを経た今、それらの感情は本当の意味で私の中で価値を持ったのだ。
アメリカ軍の上陸から幾度にも及ぶ激戦を経て、組織戦終結に至る全ての流れをそれぞれの土地にて、まさしくこれ以上ないほどの臨場感に富んだ説明を拝聴できた。それは単なる講義や説明にあらず。下地さんから、私達ツアー参加者のイメージへの訴えかけ、そして問いかけであるように私には思われた。それぞれの場所にて、その凄惨な出来事をまざまざと私達に感じさせつつも、どのように受け取りどのように考えるかは私達に委ねる。こうして参加者の主体を尊重し、尚且つどこまでもリアルに学べる平和学習は、絶対に教科書は勿論書物や写真からでは得られない学びだ。
このツアーで学んだ当時の沖縄の人々や日本軍の様子を一貫して見た時、私は当時の軍国主義や靖国信仰というものの恐ろしさを改めて思い知った。必ず敗北しその先に死が待ち構えていると分かっていながらも、生きようとする意思すらかなぐり捨てたかのように斬り込む日本兵。首里城まで敵陣が迫ったというのに、それでも尚、天皇のためにというお題目の下、無謀な集団自殺に住民を巻き込んだ軍司令部。彼等にとって天皇のために、御国の為に尽くして死ぬのは称えられるべき誉れなのだ。この狂気じみた思想は当時の日本全体を包み込んでおり、その「愛国」という巨大なストーリーの中に、一人一人の人生が粉微塵と化して取り込まれていた。人々から「生きたい」という原始的な欲求すら剥奪したこの巨大なストーリーが奪った生命の数はどれほどになるのか。
そして差別され、皇国臣民の名の下に日本軍に従わされた沖縄の人々は、文字通り全てを捧げて戦争に協力させられたのだ。彼等に対する日本軍の迫害と洗脳は教科書の沖縄戦には殆ど載っていないが、沖縄戦の住民の47%もの犠牲者はアメリカの一方的な蹂躙によって生まれたものだけではなく、日本軍が住民の命を顧みなかった結果だという事を多くの人は知るべきだ。
アメリカ兵に捕まれば嬲られて殺される、そして降伏や投降をすれば非国民として自分の家族が殺される。そんな考えが当たり前の状況下で戦火に晒された沖縄では、助かった筈の命の多くが失われた。捕まるくらいならと我が子や愛する者を刺し殺してまで集団死を選んだ人々の事を思うと、私は胸の奥がどうしようもなく詰まって言葉にならない。母親に我が子を手にかけさせるような、そんな悲劇を生む時代がどうして許されるのか。
そして恐ろしいことに、現代の日本人の多くはかつての沖縄の悼ましい犠牲も、そこから今に繋がる基地問題にも、真剣に受け止めてはいない。74年前、無辜の命が失われた意味をほとんど誰も本気で捉えていない。
今日においても平気で右翼的思想を唱え、靖國神社を崇める人々がいる事に、同じ現代に生きる日本人として本当に慙愧に堪えない。そんな日本人全体が今の安倍政権を許してしまっているのではないだろうか。
私はこの学習を心に刻んで生きていく。
(K.K.様 奈良県 男性)

沖縄をより深く理解できました。

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

中部編と南部編の二日間連続のツアーに参加いたしました。戦争の傷跡の残る沖縄をより深く理解できました。戦時中の沖縄県民の方々の悲劇を学ぶと同時に、今もなお続く基地負担の問題の深刻さも実感いたしました。大変貴重な経験でした。現在の沖縄の抱える問題や不戦の決意をどうかたくさんの若い世代に伝えていってくださればと願っております。このツアーに参加をして大変貴重な勉強をさせて頂きました。ありがとうございました。
(K.K.様 三重県 男性)

これを契機に沖縄を知りたい

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

沖縄に行くのも初めてで、また、沖縄戦についても何の予習もしていかなかったので、その全貌をつかむことが余りできなかったのではないかと思います。これを契機としてもう少し沖縄のことも知りたいと思った次第です。
矢部宏治さんの「日本はなぜ、『基地』と『原発』をやめられないのか」という本があります。矢部さんが一連のシリーズの中で、安保条約、地位協定、密約というセットで、日本が実質米国の完全な支配下にあることを暴き出し、最新の「知ってはいけない」という講談社現代新書でその全貌を分かりやすくまとめています。その「基地」と「原発」の本だったと思いますが、彼は、沖縄に行くと日本がよく見えてくるということ書いています。下地さんもお読みになりましたでしょうか。それは沖縄では基地の実態や、特にその治外法権の実体があからさまだからです。
沖縄から戻ってすぐに友人と飲んだのですが、いきなり、「沖縄の平和祈念(資料)館に行ったか、あそこは驚いた、反日なので、あれが国立だとは」という発言があり、驚きました。「県立だ」と言うと、「沖縄は本土に対する反感が強いからな」という趣旨のことを返されて絶句しました。確かに、沖縄は日本の中で、捨て石にされて、恨みが残っているとは思いますが、それを「反日」という言葉で表現されると、それは違うだろうと言わなければならなかったと思います。ですが、そうは言わずに終わってしまいました。
沖縄県知事が記者会見する際に背後に漢詩の屏風も、中国に対する親和性を感じさせるので、日本の昨今の姿勢に対する反があると感じている人が多いと思います。かく言う私も、本土の人に対するメッセージ性を感じています。ですが、漢詩は150年前までは日本の文化の基底にあったもので、今でも漢文が高校の国語に残っているのはそのためでしょう。多分、そういったことの感じ方の違いがお互いの距離になっているのだろうと思います。「反日」と言った彼は相当の読書家で、母上が久米島出身という佐藤優氏が、もう10数年前に、沖縄は余り「本土」から疎外されると、日本から独立したいと考え始める可能性が結構あるということを書いていて、沖縄以外の人は、そのことが分からないとも言っていましたが、そういう気持ちのずれは確かにあるものだと今回、私も感じました。
こんな話から始めるとガッカリされるかもしれませんが、素直な感想として言わせて頂ければ、東京の近郊の国立に住んでいる私にとって、ツアー中も少し申し上げましたが、基地が近くにある現実というのは、それほど珍しいものではありません。自衛隊の基地も含めれば、かなり至るところにあるという感じさえします。隣町の立川にあった立川基地は米軍基地でしたが返還されて、自衛隊の基地と昭和記念公園に生まれ変わりましたが、子どもの頃は、青梅線の立川から拝島まで何駅も線路の片側に、基地が続いていたのを覚えています。反対の隣の府中には航空自衛隊の基地があり、返還されたはずの米軍基地の跡地が放置されているところもあります。横田基地や相模原補給廠、入間の航空自衛隊、厚木基地、座間キャンプ、横須賀基地、・・・多分、東京を取り囲んで30~50kmの地域には、戦前に作られた帝都防衛のための基地が、ちょうど国道16号線という環状道路に沿って、ネットワークを作っているので、沖縄に次いで基地が多い地域なのではないかと思います。また、自宅の上を、嘉数の丘や前田高地ほどではないにしろ、ヘリコプターの連隊が爆音を響かせて飛んでいくこともあります。だから、沖縄だけではないとは思います。ただ、その面積に占める割合とか、訓練の激しさ、(例えばオスプレイの飛行頻度)とかは、確かにレベルが違うと思ったことも確かです。また、米軍の治外法権の問題性の大きさも、比べものにならないぐらい違うという感覚を持ちました。
本題の沖縄戦の戦跡を見て回るツアーの内容についてですが、本当にほとんど何も前提となる知識を持ち合わせていなかったので、慶良間諸島を経て、中部のあの海岸から日本軍の飛行場をめがけて上陸して、首里城に至る3つの防衛ライン(高台、丘陵地)の間で激戦があり、じりじりと日本軍が後退し、最後は南部に住民たちを巻き込みながら転戦して行ったということが分かりました。牛島、長、八原の三人の指揮官の性格の違いも興味深いものでしたし、最後は八原が天皇を守るための時間稼ぎでその南部への展開を決めたというのも、象徴的な話だと理解しました。戦場となったときの嘉数や前田高地の辺りの写真と、現状の違いも目を見張るものでしたので、写真があったのはよかったと思います。そして、鉄の暴風と呼ばれた爆撃の嵐の話や、その痕跡をとどめる遺物なども、現場でないと分からないことがありました。それでも、全体として分かったような気にはなりませんでした。たった一日、ざっと見て回ったぐらいで分かるようなものではないだろうし、現状は米軍が日々訓練しているとは言え、実際の戦闘の現場とはかけ離れたものだからでしょう。もちろん、その鉄の暴風の惨状を肌身で分かることは、精神に異常をきたすような話でしょうから、分からないのが当然で、その分からなさ加減が分かったというぐらいで、よかったのかもしれません。その分からないということから、もう少し分かりたいという気持ちが生まれるので、早速、書店に行って「沖縄戦」大城将保著を買ってきて読み始めました。大田昌秀さんの「写真記録 沖縄戦」もよさそうでした。この二つぐらいは、東京の本屋でも売っています。沖縄の本屋には沖縄コーナーがあるそうですが、他にお勧めの本などありますでしょうか。
個別の話はいろいろありましたが、印象に残っているのは、薩摩芋を広めた人の話です。主題とは直接関係ない話でしたが、調べたら野國総管という人らしいですね。1605年に中国の福建省から甘藷を内緒で持ち帰って琉球に広めたということで、それが、今では薩摩芋と呼ばれていて、名前を薩摩に取られたのは、1609年に薩摩が徳川の命?許し?を受けて、明との国交回復と薩摩藩の財政を豊にするという目的で琉球に侵攻してきて、3000人でしたかで、武士のいない琉球のにわか作りの兵をあっという間に、火器も持っていた薩摩の軍が制圧して、それ以来、薩摩に従属した結果だという話です。だから、今でも沖縄には薩摩に恨みを持っている人もいるとか。さとうきびだけを作らせたのは奄美大島だったかと思いますが、沖縄でも似たような形でお金になる作物(さとうきび)を作らせて、薩摩の財政の足しにしていたということですね。それはまさに、プランテーションで、西欧列強が植民地を支配した際に取った政策と同じと思った次第です。それが、明治維新の薩長の薩摩が雄藩として立ち上がる一つの理由(資金源)だったと。
この話を聞くと、やはり軍隊は必要だということになります。もちろん平和が良いとしても、軍隊は必要で、そうすると、憲法の前文や、憲法九条は変えざるを得ないという話になりませんか。当時の薩摩藩や徳川幕府のようなことをする国がないならいいのですが、そこのところは、考えどころだと思いました。
しかし、過去の自分の国がやってきたことを、自分の国はやらないと誓えても、他国がその通りにする保障がないのが問題です。下地様も、治外法権と沖縄の大きすぎる負担、並びに日本国政府の役人やそれに連なるエスタブリッシュメントの大企業の金もうけの手段で新たな辺野古のような軍事基地を建設し、国の予算をじゃぶじゃぶ米軍のための思いやり予算として使うのは許せない、という主張されていたと思います。普天間と辺野古は海兵隊がグアムに撤退する計画もあったのに、日本政府が居残らせているのがよくないが、一方で、米軍の駐留は仕方ない、飛行場は嘉手納基地だけで十分ではないかと言われていました。人間は愚かなので、結局軍隊は必要だということになるのですね。そこのところは、どう主張するのがよいのか考える必要があると思います。
私は、長い目で見れば憲法9条は自衛隊の存在と矛盾するので、変えるべきだと思いますが、一方で、現状の米国の支配下である現実を考えると、米国の言いなりにならないための道具として9条を活用すべと考えるので、今すぐ改憲するというのには賛成しません。それには、日米地位協定や安保条約を改定して、日本が独立国になることと同時でないと憲法で許される軍隊を持つ意味がないと考えます。私は個人的には、米軍はすべて追い出して、日本独自の軍隊を持つべきだというのが理想ですが、現実的にはそれは難しいというのも理解できます。それでも、もう少し米軍に対する従属度を低くしたいと思います。結局、米軍に支配されていることが目に見えるのが沖縄で、でも、沖縄のリゾート地だけを見ていてもそれは分からないから、それを見せる努力は重要ですね。
沖縄の人が、沖縄に負担が集中していて、米国による支配があからさまな沖縄と、それがかなりソフトな本土の間の温度差になっていることを、もっと東京に出て来てそれを主張できるといいのですが、メディアは押さえられてしまっているので、難しいのでしょう。
日本軍にも沖縄の人たちは、間諜の疑いをかけられ、村民が虐殺されたこともあり、米兵よりも日本兵の方が怖かったという証言もある。戦後は、米国の支配下に入り、米軍に苦しめられるようになり、1970年にはゴザ暴動もあった。1972年に本土に復帰したものの、今度は日本政府が米軍におべっかを使って、米軍>日本政府>沖縄という構造の中で苦しめられることになった。この構造の中で二重に差別されているわけで、返って本当に相手にしなければならない相手が遠くなってしまったとも言えるわけです。
ともかく、その差別構造というものがずーと続いているが、そのことが、やまとんちゅーには分からない。そういうことと理解しましたが、違っていますでしょうか?
この壁をどうやって乗り越えるのかが課題なわけですが、やはり米軍に対する従属度を下げるということで、共闘していかなければならないはずです。ところが、今の韓国たたきの風潮の中では、中国、北朝鮮、韓国がなかば敵のように扱われ、対する日本としては米国を頼りとするしかないという論調が支配しています。本当は、観光客誘致で何とか経済を持たせようとしている国家戦略とも、上記の話は大きく矛盾するのですが、そういうことには無頓着で、というかその多数の隣国からの観光客の存在が、下手をすると、まさに非正規雇用の不安定な人たちの不安や劣等感を煽るような形になっているようです。いずれにしても、日本は否応なく米国側についているにしても、米国と中国との覇権争いの中で、板挟みにあっているということを、多くの国民が理解することが、沖縄の窮状に共感が集まるためにも、必要だと思っています。
さて、本題に戻ると現地で話を伺ってよかったと思う点として、wikipediaにも沖縄戦の項目があり、帰宅してからチラチラ見たのですが、どうも日本兵の勇猛さを強調するくだりがおおく、事実勇猛であっただろうとは思うものの、それを強調し過ぎるのは変な意図を感じざるを得ないわけで、やっていることの悲惨さ、凄惨さや、絶望的な戦いの感覚というものが、分からなくなるのではないかと違和感を覚え、そういう違和感に何かしたら実感が加わった気がするところです。今の現実風景が、あの写真のようになるというだけでも、それは言葉にできない凄みを感じるわけです。
南部のあの隆起した元は珊瑚の石灰岩からなる地形で、カルスト台地のようなもので、起伏に富み、そして至る所に洞窟(ガマ)があるという地形が良くわかり、またその地形が、戦場として作戦にどう影響し、最後に逃げ込んだガマで悲惨な集団自決や、火炎放射や爆弾等による、集団的な殺戮が行われたのかということが良く分かったことです。東京で考えるなら、山の手台地のまさにその突端のところで、台地と谷が入り組んだ地形があるわけですが、その台地の突端の斜面に防空壕が掘られていたように、その台地上の陣地をめぐって、凄惨な地上戦が戦われたということに相当するでしょう。東京の台地は岩石ではないので、爆弾に耐える力は弱く、また、高低差も小さいので、沖縄戦のようには耐えられず、あっという間に壊滅でしょうね。そうすると東京近郊だと、多摩丘陵や、横浜から三浦半島にかけての丘陵地帯でそのような戦いが繰り広げられたと考えるのが妥当だと思います。湘南海岸に上陸した米軍が、50km離れた東京に迫ってくるときに、多摩丘陵の陣地を巡って死闘が繰り広げられたと想像してみることですね。自分の知っている土地で言うと、今の慶応大学の日吉キャンパスのある辺りが、前田高地で、田園調布の南の河岸段丘あたりに首里城の地下司令部があったとか、多摩川を挟んで激戦があったとか、そんな感じだと思います。東京から来た人には、そんな話をすると土地感覚が分かってよいと思います。
それからもう一点、韓国の人たちが徴用工や従軍慰安婦だけでなく、朝鮮人日本兵として戦闘にも参加しているはずですが、その日本兵だった皆さんには恩給などが出ているのですか?徴用工などに対しては、個人的には救済はされずに、1965年の日韓合意で、日本政府から朴政権に対して一括してお金が5億ドル?払われたという話だったと思います。個人に対する救済はそれでも必要だというのが一般的に認められているので、日本企業も請求権協定とは別にそれなりの対応をしてきたが、今回は政府がそれを止めたということだと理解しています。それで気になったのは、朝鮮人日本兵はどういう扱いを受けたのかということですが、wikipediaを見る限りは個人として多少の救済はされたように見えました。本当のところ北朝鮮にも補償しなければならないはずで、敵対しているから放置されていますが、核兵器を手放さない限り出さないとして、永遠に放置するんでしょうかね。日本国民の感情として、拉致の被害者の問題だけでなく、核兵器を持ったままの北に対しては、お金を出したくないでしょう(中国には出したわけですが・・・)。

沖縄県の皆様の訴えたいこととして、普天間を返還し辺野古を止めるということが最大公約数的なものであるということなのですね。もちろん、その主張は私は知っておりますが、東京の一般の人たちの中でそれを浸透させることが、とても困難で、壁にぶつかっていると言っていいと思います。SNSでそのような主張をしているグループの皆さんもおりますが、そういうグループの皆さんに対しての攻撃が日増しに強まっている感じがしますし、昨今は、その訴えも弱くなりつつあるのではないかと思えます。恐らく、民主党政権の鳩山内閣で、辺野古を最低でも県外へと約束したにも関わらず、それがあっけなく挫折したことが、第一の関門として立ちはだかっているように見えます。あの失敗の原因を究明して、その対策を立てて臨まなければ、本土の多くの人々の納得を得ることは難しく、あとは棚から牡丹餅を待つことになってしまうでしょう。

このようなことを言うのは単なる開き直りで、うちなんちゅーの皆様から見れば、盗人猛々しいの類かもしれませんが、沖縄県からも本土の人と共闘できるような、提案を、声を、東京や他の都道府県にも届けるようにして頂けたらと思います。
私は自分のできることはやります。多くの人は説得できないでしょうが、少数の人を説得したり、逆の方向に行っていまわないように努力することです。しかし、それも現実には自分の友人の一人も十分に説得できないわけなので、大した力ではありません。
鳩山内閣の話を例にとると、政治は結果であるということからすれば、鳩山首相のやったことは、あっけなく敗退したことから、辺野古の問題に関しては、マイナスだったとすら言えるわけです。これに対して、それきちんと言い出したことが前進だったと評価する人もいれば、そもそも、反日の沖縄の言うことを取り上げること自体がけしからん、反日なのだから基地を置いて押さえつけとくのが丁度いいとさえ考える人もいるでしょう。私は、鳩山首相が官僚を押さえる算段を持たず、米国と交渉する戦略もなしに、辺野古の問題に乗り出したのは失敗だったと言わざるを得ないですが、この間、色々と明るみに出たことを考えれば、その動議を出していいこともあったと評価する必要があると思います。
多分、今できることは大きな戦略を持って、次のチャンスに何をやるか考えて、その方針を決めることです。可能な限り、沖縄の人も本土の人も同じ考えを持てるようにしていくことです。日本と北朝鮮が和解するタイミングなのか、台湾が中国に取り込まれるタイミングなのか、日ロの平和条約が締結できるタイミングなのか、私には分かりませんが、そういった可能性を考えておくことぐらいかと思います。
米軍が韓国を撤退する可能性はかなりあるでしょう。そのときは沖縄に対する日本政府からの締め付けが厳しくなるかと思いますが、それは一つの契機にはなるでしょう。
しかし、今の韓国叩きの状況を見るにつけ、米軍が韓国から撤退したら、沖縄にたいする圧力が高まることしか想像できないですね。それを東京の一市民がどうにかすることはできる気がしません。そこで、思っているのは、令和新撰組を応援するのがましな選択だということぐらいです。
最後に一つだけ質問です。普天間と辺野古が沖縄にとって焦点だとすると、鳩山内閣のどこが失敗だったとお考えですか。私は、その伏線として2009年の小沢一郎の在日米軍は第7艦隊で十分という発言をきっかけに彼が東京地検特捜部とメディアスクラムにより失脚させられたことがあると思います。これを、国民が守れなかったことがまずあるわけです。私は個人的には、あのとき小沢一郎を応援しました。それから、鳩山由紀夫も辺野古の件で色々批判されましたが、僕は擁護しました。どちらも大した力にはなっていませんが・・・。
それから可能性として、首里城の火災は謀略の可能性もあると思っています。しかし、それを言い出すと袋叩きに合うでしょう。それでも、本当にそうならそれを明らかにすることが重要です。でも、完全に一般の人が1か月シャットアウトされた中で現場検証が行われて、その間に対した情報が出てこないのですから、怪しいとは言えても、これはどうしようもないと諦めた方がいいのかもしれません。このことで、日本政府が金を出すからと言って負い目を持たないようにできたらと思います。その意味で、多くの寄付を集めて、再建に際して政府の出す金を少なくすることが、沖縄人の自由につながると思います。
(S.K.様 東京都 男性)

心に深く重く湧き上がってくる感情

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

下地さんのツアーに参加してから4日がたとうとしています。日を重ねるごとに心に深く重く湧き上がってくる感情。それは「ありったけの地獄」を見た沖縄の人たちと沖縄の地が受けたあまりにもむごい現実が、下地さんの言葉と用意してくださった資料、そして実際に自分がその場に立った経験を通して私の目に心にフラッシュバックのように浮かんでくるからです。
初めて訪れたチビチリガマ、そしてその後に行ったシムクガマ。避難していた住民が米兵が現れ投降を呼びかけられたけれども自身と家族を手にかけ集団死が起きたチビチリガマと、「米軍は住民を殺さない」と避難民を説得し、米兵との交渉に出ていった比嘉さん兄弟の行動で約1000人の命が救われたシムクガマと、その違いは何だったのか?下地さんは私達に問いかけ、頭と胸を指さしました。「正しい、本当の知識・情報」と「勇気」。その答えが胸にずしんと響きます。誤った情報を信じ込むことの恐ろしさ(米軍に捕まれば虐殺されると信じ込まされていた)、違う文化を持つ人の感じ方や価値観を理解すること、自分や家族、友人の命を守るという勇気。一つ一つを胸に刻みたいと思います。
続いて訪れた嘉手納基地で、まさに耳をつんざくような轟音とその音よりも速く飛ぶ戦闘機を至近距離で見ました。初めて体感するこの感覚。恐怖で震撼するほどでした。地図を見せて頂くと普天間基地よりはるかに大きな嘉手納基地の規模に驚きました。「中国への抑止力と政府は言うが抑止力ならこの嘉手納基地で十分。普天間基地がなぜ必要なのか。私達はすべてを拒否しているわけではなく実際に嘉手納基地を受け入れている。普天間基地は1996年に米軍から返還されることで合意は成立しているのにいまだこの状態。返還を求めることは私達のわがままですか?」。下地さんの言葉に絶対にそうではない!と言いたいのに言えない自分がいました。同じ日本に生きながらこの事実をよく認識していなかった自分が恥ずかしく申しわけなかったのです。「一部の本土の人、日本政府には、DNAレベルでの沖縄の人間に対する差別意識があるように思えてならない。」そう言った下地さんの悲しくやりきれない瞳に返す言葉がありませんでした。
ツアーのコースが米軍上陸地の読谷村の海岸から北谷町、嘉数高地、前田高地、そして首里へと向かうなかで、筆舌につくしがたい戦闘の様子があきらかにされていきます。中でも衝撃だったのは鉄血謹皇隊と呼ばれていた15歳から19歳の学徒たちがアメリカ軍の戦車に爆弾を背負って体当たりしたという事実です。戦車の車体は装甲が厚く普通の爆弾ではびくともしないため、キャタピラーを狙い、轢かれるように突撃して戦車を動けなくする。想像を絶する戦略が当たり前のように行われる。それが戦争なのだと改めて思わされました。兵士となった人が、そこに暮らしていた人々が、悲惨な死を遂げたのは何のためだったのか。「軍隊が沖縄に来たのは人々を守るためではないのです。」下地さんの言葉にはっとしました。徹底した皇国主義と教育、それに加え他人と違うことをするのを恐れる日本人の気質など、それらは軍部にとっては人々を戦争に向かわせるのに好都合だったのでしょう。当時、アメリカ軍の戦力は日本軍を圧倒しており(米軍約55万人、日本軍約10万人。武器の量や性能を合わせた戦力の差は10倍以上だった)、その事実を日本の中枢部は知らないはずがなかったとのお話に、死を覚悟して戦地に向かった人たちの思いを今自分はどれだけ想像できているだろうかと自問せずにはいられませんでした。
岩手県花巻市出身の私の祖父は1945年(昭和20年)5月21日 首里東北部で戦死(当時42歳)したと母から聞いています。祖母が晩年書き残したものに、「主人は沖縄行きの途中(1944年8月)、広島を出発するにあたり私への遺言として『信仰に立つものとして(祖父と祖母はクリスチャンでした)主なる神のみこころに叶う処置を執るように』との一筆を受け取った。」と書いています。沖縄に向かう時にはすでに祖父は生きて家族のもとに帰るのは難しいと覚悟して手紙を書いていた。この事実に胸が締めつけられるのは今回このツアーに参加して、祖父が見たかもしれない景色を見、歩いたかもしれない地をたどることができたからです。貴重な体験を、考えるきっかけを、そして沖縄戦について知らなかった多くのことを教えてくださった下地さんに心から感謝しています。
(K.S.様 神奈川県 女性)

本当に濃い2日間でした。

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

本当に濃い2日間でした。沖縄戦の最初から終わりまで、しっかり向き合うことができました。秋田に帰ったらいろいろな人に話しをし、後世に伝えていきたいです。子ども(将来できたら)もぜひこのツアーに参加してほしいと思うくらい良かったです。それまでどうかお元気でこの歴史を伝えてほしいです。本当にありがとうございました。
(K.M.様 秋田県 女性)

自分の考えを知り、改める機会

沖縄戦、その始まりから終わりまでを見るツアー

先日のツアーでは、ひとつひとつの場所や出来事を丁寧に説明していただき、得るものが大変多い二日間でした。
一緒に回っていただいた沖縄は本当に美しく、青い海や空、夢のような場所で74年前に起きた惨劇と、今沖縄が抱える基地の問題で胸がいっぱいになりました。このツアーは”頭で考えさせられる”というより、目の前で、肌で感じられることがぐいぐい迫ってくるようなツアーでした。
下地さんがクリアファイルを何冊も持ち歩いて、当時の写真が撮られた場所に行って今と見比らべたり、具体的なグラフや資料をその場で見せていただき、説明がとても分かり易かったです。また、駐在米軍の住宅街や沖縄戦の場所など行けるところは限界まで案内してくださり、絶対に自力では行けなかった場所ばかりでした。
些細な質問にも様々な知識で応えてくれ、ショックや情報量の多さで内容の半分しか消化できなかった私に、「自分の説明も間違いがあるかもしれない。目の前にあるものを実際に見て、自分で考えればいい」と言ってくれました。
このツアーを通し、沖縄の現在と過去をじかに見て、自分が「今まで知らずにいて、想像もしてこなかった」という事実を突き付けられました。また、中立だと思っていた自分の知識がTVの報道やネットで偏り、「現実と違うこと」をどれだけ含んでいたか気付かされました。
そしてツアーの最後に思ったことは、「やっぱり戦争はいらない」ということです。今まで事情や原因があれば、戦争という手段もしかたがないと思っていました(そう思っていた自分に気が付きました)。しかし、沖縄戦や米軍基地を見て、どれだけ人が傷つくか、命や暮らし、文化が壊されたか知って、戦争で得られるものなど1ミリもないと思いました。それは、目の前で事実を体験できたからです。日本本土で、TVや本を読んだり、家でくつろぎながら戦争を知っても、犠牲は自分の想像の範囲でしか考えられず、利益のことに目がいってしまいます。しかし、実際に戦う人、そこの住民には利益はなく苦しみばかりなのだと思いました。
沖縄を通して自分の考えを知り、改める機会になりました。
最後に、暑いなか丁寧に説明や案内をしてくださり、本当に有難うございました。
(S.T.様 愛知県 女性)

 

沖縄に行くと日本がよく見える

沖縄の負担を見るツアー

今回は辺野古の地元の町並みをこの目で見て下地さんのお話を聞いて、問題の複雑さが実感できました。ゲートで活動してられる方と少しお話できたのも良かったです。その方は冷静に活動されていて、気にしてもらえるだけでいいと言って下さって、ちょっと涙ぐんでしまいました。基地巡りは有意義でした。下地さんが何度もおっしゃった、広々とした基地の敷地内と周りのぎゅうぎゅうの住宅地との対比、目に焼き付いています。返還されても無意味な土地、危険で浄化しないとすぐには使えない土地等々、沖縄の負担の大きさを垣間見る事ができました。佐古監督が筑紫哲也氏に言われたという「沖縄に行くと日本がよく見える。この国の矛盾がいっぱい詰まっている。」という言葉を思い出しました。
(S.T.様 神奈川県 女性)